2013年3月10日日曜日

みなさまご無沙汰しております。

ブログの更新がないので・・・と心配してメールをいただいたりありがとうございます。

2月27日午後11時10分 父が亡くなりました。

このような記事を載せるのはどうかとも思いましたが、今日の思いをつづりたいと思います。

4年前の1月に父は「肝門部胆管がん」と診断されました。

腫瘍は肝臓から十二指腸につながる胆管にできた小さな物でした。
ただ肝臓に入り込んだ場所だったため、手術は出来ないとの診断で、
余命1年 年は越せないだろうというお話が主治医から家族にありました。

大阪から長崎に帰っていた姉から電話をもらってそのことを聞いた時の
胸がぎゅうっと絞めつけられるような痛みと、涙がぽろぽろ止まらなかったこと
今でも覚えています。

家族の落ち込みとは逆に、先生から「手術は出来ない状態です」と言われた父は
1日ぐらいは暗く落ち込んではいたようですが
すぐに立ち直り、治療がないのなら退院して仕事する!!と退院し
本当にすぐに仕事に復帰したのです。

今思えば、気を紛らわせたかったのでしょうか


それからの父は、放射線、抗がん剤と、保険外治療の「免疫細胞療法」という治療を続けました。

4年間、十二指腸に転移して胃と小腸を直接つなぐバイパス手術や、
胆管に管を通す手術など、何度も入退院を繰り返し
私たち家族は何度も あ~もう今度こそダメなのかと落胆しましたが
父だけは前向きでそこからまた復活し・・・の繰り返しでした。

放射線治療に通っていた時も、1番の診察の方と、2番の診察の方では終わるのに
1時間近くの差があって、いつも父と同じ日に受ける患者の方がいらっしゃったのですが
その人に順番負けないように家を10分前に出て「よっしゃ!今日は1番!!」と満面の笑み

そして昼前には帰宅して、着替えて仕事に行くという
本当にがん患者なの?放射線うけたばっかりだよ!!と母も半分呆れていました。


父はタイやハマチの養殖業と卸業を私が生まれた頃に始めました。

ほとんど毎日、朝4時に起きて魚を出荷し、昼に帰ってきて仮眠しまた出かける
本当に仕事人間でした。

仕事仲間の方の弔辞でも
「いつも自分に厳しく、病気になってからも私たちに頼ることもせず・・・
でも頼って欲しかった。
いつも先頭を走り続けて、背中で私たちに色々な事を示してくれました」と


最初はみんなで仕事を辞めるように話しました。
でも、「仕事を辞めるということは、生きていないのと一緒だ」 と聞いてはくれませんでした。

仕事があったからこそ気力だけで病と闘ってきたのかもしれません。


結局父は、亡くなる一週間前、入院の前日まで仕事をしていました。

先生とお話した時に
「もう1月後半には入院していただこうかと思いましたが、お父さんにとってどういう治療が
一番なのか? 考えた結果、気の済むまで仕事をしたらいいんじゃないか
自分の親がもし同じ状態だったらそのような最期を迎えて欲しいと・・・
医者としてではなく、人として私はその選択をさせていただきました」と

そのとおり、父らしい最期だったのではないかと思います。

病室に入りきれないぐらいの家族、親類に囲まれ最期す~っと眠るように息を引き取りました。

入院中も弱音をはかず、病気に立ち向かい、最期まで立派な父でした。

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