2013年3月28日木曜日

さくら


長崎の実家近くの桜
 
 
長崎でも有名な桜の名所です
 
毎年春休みに帰省すると、父、momo、rin、私の4人で一緒に桜を見に行っていました。
 
そして父が発病してからは、「今年も一緒に桜が見れてよかった」
「来年は一緒に見れるかな」という複雑な気持ちで桜を眺めてきました。
 
今年は例年より一週間程早く見ごろを迎えたので、
桜は満開で、風が吹くと花弁が散ってとても綺麗でした。
 
 
でも寂しかった

2013年3月17日日曜日

万博公園

ウチの旦那さん春~秋しか活動しません。
と言ってももちろん仕事はしてますが^^; 

夏は毎週のようにプール、春、秋も公園行ったり、プチ旅行行ったり
でも冬になるとぴたっと動きが止まります。

そして昨日は長い冬眠から目覚め、久しぶりに万博公園に行ってきました

 
 
ウチの娘たち、昔からフリスビー大好き!!
2対2で対戦したりしてたんだけど、落とさないように突っ込んだら思いっきりこけました。
 
次はフリスビーを取ろうと腕をとっさに振り上げてしまった。
四十肩で調子悪い腕がめちゃくちゃ痛くて泣きそうでした。
 
 
 
桜の木に引っ掛かったフリスビー
 ↑↑ こういう珍事を起こすのは、ウチの場合もちろんmomoです
 
桜の枝が折れないか心配していましたが、
私のスニーカーを投げて、枝も折れることなく無事にとれました。
 
桜の蕾もふくらんで、今週末には咲きそうな感じでしたよ
 
 
久しぶりに外で思いっきり遊べて大満足な一日でした。
 
 

2013年3月16日土曜日

プレゼント

お友達のRちゃんにまたまた可愛いプレゼント戴きました~
 
革ひもに半貴石のブレスレット・・・ 一番右
 
こういうプレゼントって
私の普段のファッションや好みを考えながら選んでくれてるんだろうな~って
嬉しさが倍増します
 
ありがとう Rちゃん

2013年3月11日月曜日

3月11日


このところ、日にちの感覚がなくもう少しで忘れてしまうところでした。
決して忘れてはならない日
 
 
コチラの2冊を購入しました。

 
お友達のaさんのブログにも載っていましたが、
 
「PRAY FOR JAPAN」
 
世界中の国からの励ましの言葉や、日本で起きたさまざまなエピソードをまとめた本です
 
普通なら、略奪など起こってもおかしくない状況下で、譲りあい、助け合い、励ましあって
 
日本を戦後復興させた年代の方はもちろん、今の若者たちも、子供たちも
日本人ってすごい 素晴らしいです
 
 
そしてもう1冊は
 
「ひまわりのおか」
 
私はあるテレビ番組で観た宮城県石巻市にある大川小学校の事がずっと気になっていました。
津波で全校生徒のほとんど74人の児童の命が奪われました。
避難経路は正しかったのか?なぜすぐ裏の山へ児童を非難させなかったのか?
ニュースでもいろんな問題が検証されていました
 
「子供がいなくなってしまい、育てられる命を求めているんだとおもう」
ひまわりの丘でひまわりを育て出したお母さんたちの言葉です。
 
人は人を想うこと、人に想われることで生きていけるのです。
お母さんたちは、いつもどこでも子供たちのことを想っています。
子供たちはお母さんと一緒に生きています。
こんなかわいい子がいたんだよ。こんなやさしいお母さんとずっとずっといっしょなんだよ
 
そういう想いで作られた絵本です。

2013年3月10日日曜日

みなさまご無沙汰しております。

ブログの更新がないので・・・と心配してメールをいただいたりありがとうございます。

2月27日午後11時10分 父が亡くなりました。

このような記事を載せるのはどうかとも思いましたが、今日の思いをつづりたいと思います。

4年前の1月に父は「肝門部胆管がん」と診断されました。

腫瘍は肝臓から十二指腸につながる胆管にできた小さな物でした。
ただ肝臓に入り込んだ場所だったため、手術は出来ないとの診断で、
余命1年 年は越せないだろうというお話が主治医から家族にありました。

大阪から長崎に帰っていた姉から電話をもらってそのことを聞いた時の
胸がぎゅうっと絞めつけられるような痛みと、涙がぽろぽろ止まらなかったこと
今でも覚えています。

家族の落ち込みとは逆に、先生から「手術は出来ない状態です」と言われた父は
1日ぐらいは暗く落ち込んではいたようですが
すぐに立ち直り、治療がないのなら退院して仕事する!!と退院し
本当にすぐに仕事に復帰したのです。

今思えば、気を紛らわせたかったのでしょうか


それからの父は、放射線、抗がん剤と、保険外治療の「免疫細胞療法」という治療を続けました。

4年間、十二指腸に転移して胃と小腸を直接つなぐバイパス手術や、
胆管に管を通す手術など、何度も入退院を繰り返し
私たち家族は何度も あ~もう今度こそダメなのかと落胆しましたが
父だけは前向きでそこからまた復活し・・・の繰り返しでした。

放射線治療に通っていた時も、1番の診察の方と、2番の診察の方では終わるのに
1時間近くの差があって、いつも父と同じ日に受ける患者の方がいらっしゃったのですが
その人に順番負けないように家を10分前に出て「よっしゃ!今日は1番!!」と満面の笑み

そして昼前には帰宅して、着替えて仕事に行くという
本当にがん患者なの?放射線うけたばっかりだよ!!と母も半分呆れていました。


父はタイやハマチの養殖業と卸業を私が生まれた頃に始めました。

ほとんど毎日、朝4時に起きて魚を出荷し、昼に帰ってきて仮眠しまた出かける
本当に仕事人間でした。

仕事仲間の方の弔辞でも
「いつも自分に厳しく、病気になってからも私たちに頼ることもせず・・・
でも頼って欲しかった。
いつも先頭を走り続けて、背中で私たちに色々な事を示してくれました」と


最初はみんなで仕事を辞めるように話しました。
でも、「仕事を辞めるということは、生きていないのと一緒だ」 と聞いてはくれませんでした。

仕事があったからこそ気力だけで病と闘ってきたのかもしれません。


結局父は、亡くなる一週間前、入院の前日まで仕事をしていました。

先生とお話した時に
「もう1月後半には入院していただこうかと思いましたが、お父さんにとってどういう治療が
一番なのか? 考えた結果、気の済むまで仕事をしたらいいんじゃないか
自分の親がもし同じ状態だったらそのような最期を迎えて欲しいと・・・
医者としてではなく、人として私はその選択をさせていただきました」と

そのとおり、父らしい最期だったのではないかと思います。

病室に入りきれないぐらいの家族、親類に囲まれ最期す~っと眠るように息を引き取りました。

入院中も弱音をはかず、病気に立ち向かい、最期まで立派な父でした。